夏目さん講演会「孫が読む漱石」(2)


(前回のあらすじ)
去る9月18日、横浜:神奈川近代文学館にて、
夏目房之介さんの講演が行われた。
漱石作品について、孫・房之介さんは何を思い、語るのか?
・・・当日参加した私のメモを元に、その内容を大まかにご紹介!
(注:各項目のタイトルは、
私がメモを取る上で便宜上取り上げたキーワードです。
夏目さんブログで公開されているレジュメとは、タイトルが異なりますが、
ご了承下さい。)

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小林信彦さんの「うらなり」


「孫が読む漱石」は、熊本日日新聞での連載をまとめたものだ。
漱石作品といえば、「文学全集」の1つとして、
家の中で「家具」(あるいは部屋の装飾の一部)と化してしまっているのだが(笑)、
若い頃は、その一部を飛び飛びに読んでいたことがあった。
今回連載するにあたって、
「これまでの専門家によるものとは違う、自分なりのやり方にしたい」という条件を出した。
漱石作品を時系列に読むことにし、ラストに鏡子夫人の手紙を取り上げた。
単行本刊行の際は、「はじめに」を加筆して、連載をそのまままとめればラクだったのだが、
書き足すうちに、あちこちに加筆・修正が必要になり、
調べ直して書き足すうちに、また修正を繰り返したりして、どんどん加筆が増えていった。


刊行後、小林信彦さんが誉めて下さった・・・ようだ。
「ようだ」というのは、あの方は、なかなか複雑な表現をされるから。
どうも、ご自身の漱石作品の見方と、僕の感想が似ていたらしい。
その頃、小林さんが「うらなり」という本を出されたことがご縁で、
小林さんが対談に呼んで下さった。


小林信彦・著「うらなり」とは、
坊っちゃん」に出てくる「うらなり」を主人公にした小説である。
赤シャツらを相手に、山嵐坊っちゃんが立ち回りを演じた事件から30年後、
うらなりが東京で山嵐と再会し、当時を回想する話なのだが・・・。


ここでうらなりから見た事件の印象が語られる。


「(送別会ののち、坊っちゃんに)送られて帰るのをありがたいと思いながら、
五分刈り(=坊っちゃん)が、なぜ私の身を思ってくれるのか、理解しがたいものがあった。
堀田(=山嵐)にいろいろ聞かされたとしても、この好意はふつうではない。」
(「うらなり」p83)


僕も「坊っちゃん」は、表面的な痛快さとは裏腹に、実は暗い話のような気がしていた。
この話は、最後立ち回りはあるけれども、
よく考えたら赤シャツたちには勝っていないのである。
本来負けるしかない人間である坊っちゃん山嵐を、
坊っちゃんの一人称で景気よく書いているようなのだ。
ちなみに、坊っちゃんは江戸、山嵐会津の出身。
・・・ともに明治維新で敗れる側の人間である。


うらなりからしてみれば、本来坊っちゃんは部外者のはずで、
部外者なのに勝手に盛り上がっている、迷惑な存在だろう。
しかも、すぐ人の言うことを真に受けるから、バカである。
・・・なのに、
そんなバカな坊っちゃんの一人称で小説が成り立ってるのだからすごい。
これは落語の、与太郎の一人語りに似ている。


「うらなり」に、こんなくだりがある。


山嵐)「正義は私の側にあると考えても、世間的に見れば、これは私闘です。
――ところが、あいつは自分を主人公みたいに思っている。
主人公が脇役の戦いを手伝うみたいな意識があったらしい。」
(略・卵をぶつけて相手を黄色くした坊っちゃんの話)
私は笑いを堪えられなかった。いかにも五分刈りらしい仕業に思えたからだ。
(略)私から見ても、この事件の中心人物は堀田である。あるいは、堀田と教頭である。
五分刈りは堀田の助っ人に過ぎない。
その助っ人がしゃしゃり出たために、事件は<黄色い喜劇(コメディ)>になってしまった。
(「うらなり」p159〜161)


本来は、赤シャツと山嵐の正義の戦いであったはずなのに、
坊っちゃんの存在により、相対化され、笑い(コメディ)になってしまった。
・・・これが、漱石の意図。
しかし、「猫」以降の作品では、だんだん相対化よりも主体化がなされていく。


(つづく)


追記:
夏目さんがご自身のブログで、今回の記事を紹介して下さっています。
ありがとうございます!
・・・しかも、「再録的メモを連載中」とご紹介下さっていて。
何だか私も作家さんになったみたいでホクホク。早く続き書かなきゃ。
http://blogs.itmedia.co.jp/natsume/2006/09/post_1e06.html#more