夏目さん講演会「孫が読む漱石」(3)


(前回のあらすじ)
去る9月18日、横浜:神奈川近代文学館にて、
夏目房之介さんの講演が行われた。
漱石作品について、孫・房之介さんは何を思い、語るのか?
・・・当日参加した私のメモを元に、その内容を大まかにご紹介!
(注:各項目のタイトルは、
私がメモを取る上で便宜上取り上げたキーワードです。
夏目さんブログで公開されているレジュメとは、タイトルが異なりますが、
ご了承下さい。)


ちなみに、夏目さんブログより、当日のエピソードとレジュメはこちら。
http://blogs.itmedia.co.jp/natsume/2006/09/post_bd54.html#more

____________________________


●「こころ」って「自己チュ―」?


「こころ」は、漱石の代表作と言われることが多い。
主要キャラが、漱石作品に多い「先生と生徒」という組み合わせで、
それが知識層に受けたためか。
知識層には教師・学者が多く、彼らが授業で「こころ」を取り上げて、
その教え子がまた取り上げて、という繰り返しで、
広く読まれるようになったからか。
毎年、夏休みの課題図書で読まれることもあり、一番売れた本らしい。
・・・けれど。読んでみると、最後がけっこうひどいので、
「何でこれが代表作と言われるのか?」と、ちょっと疑問に思うフシもある。


高校の頃、最初に読んだ時は、実はけっこう面白く読んだ。
が、今回改めて読んで、「先生」に対し、
「こんな身勝手なヤローはいない!」と思ってしまった。


主人公の問いかけに、先生は隠し事があるから、ナゾめいた答えを返す。
ここで「ナゼか?」と言うことは言わない。
・・・ミステリー仕立てになっている。
マンガで言う「引き」っていうヤツで、新聞連載の手法である。


先生は、友人の妻を奪って、二人でつつましく暮らしていた。
なのに、あれほど大事にし、愛していた妻を、その気持ちもわかっていながら、
長い、長〜〜〜い遺書を残して、自殺してしまう。
自殺したら、あとに残された者達がどうなるか、わかっているにも関わらず、である。
しかも、遺書。どのくらい長いかって言うと、小説の3分の2くらい。(笑)
・・・「そんなに書ける気力があるなら、もっと頑張って生きろよ!」と思うが。
で、小説はその遺書が終わると共に、ぷっつり途切れたように終わっているのである。


それを受け取った主人公も、よく考えたらヘンだ。
父親が危篤だというので、郷里に帰っている所へ、この分厚い遺書が届く。
その初めの方に、
「この手紙があなたに届く頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。」
という文を見つけるやいなや、あわてて列車に飛び乗り、東京に向かってしまうのである。
しかも、危篤の父をおいて!
で、とにかく列車に飛び乗ってから、分厚い遺書を読み始めるのである。
ところが、小説は遺書の最後でぷっつりと終わっているので、
そのあと彼はどうなったのか、一切書かれていないのだ。


今の女子高生に読ませたら、「先生って、なんてひどい人!」と怒っていた。
・・・だが、あれが、当時の漱石の限界。
漱石にとっては、これは「先生の物語」であって、
その後、彼の周りの人々がどうなったかは、どうでもいいことなのだ。
・・・今で言う「自己チュ―」である。


ところで。「自己チュ―」だからといって、「モラルがない」という訳ではない。
漱石自身は、とってもモラリストであった。
「自己チュ―」だが「モラルがある」というのは、案外矛盾しないのだ。


「先生」は、国のため・人のため、世界のことを考えるのに精一杯で、
自己チュ―になってしまっていた。
とはいえ、作品が書かれた当時、自己チュ―な言動ができるのは、
漱石のような一部の知識人の特権であった。


今は、社会全体の生活水準が上がったから、世の中のほとんどの人が自己チュ―になれる。
「自分のため」にやっていることが、消費を介して、
「人のため」「社会のため」になるのだ。
・・・だから、「自己チュ―」で当たり前で、
それは決してネガティブなことではないのだ。


(つづく)