夏目さん講演会「孫が読む漱石」(4)


(前回のあらすじ)
先日、夏目房之介さんの講演会「孫が読む漱石」に参加した。
漱石の孫・房之介さんは、漱石作品について、何を思い、語るのか?
・・・それを読み解くキーワードは、意外にも、「自己チュ―」だった!


それでは、当日のメモから講演を振り返るシリーズ・第4弾をお送りします!

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●「明暗」外の顔と内の顔


高校の頃の同級生に文学青年がいて、
彼に勧められていくつもの文学作品を読んだ時期がある。
その彼が、ある時しみじみ言った。
漱石の『明暗』って、
これからホントに面白くなるっていうところで終わっちゃうんだよね。」
・・・それを聞いて、読む気がなくなってしまった。


だから、初めて読んだのはつい最近のことだ。
キッカケは、「二兎社」という劇団の「新・明暗」という舞台。
これがけっこう面白くて、間の取り方が上手くて笑えたし、楽しく観た。
後日、この舞台の脚本・演出をした、永井愛さんにお話を聞いた。
彼女いわく、「『明暗』は、ギャグです」。
ご自身には、登場人物の表裏のあるやりとりが、ギャグに思えたそうだ。
だからこそ、舞台化された『新・明暗』は、楽しく観られたのかもしれない。
・・・それほど、見る人によって見方が変わる作品である。


「自己チュ―」という話に関連するが、外に出て仕事をしている人は、
公の場ではとてもいい人であっても、家ではワガママになる事が多い。
(ちなみにその被害は大概、一番身近な人、
・・・つまり奥さんや子供に降りかかるのである。)
漱石は、その建前と本音とを相対化し、
「明暗」では登場人物それぞれからの見方を併記している。
「道草」では自分や妻を投影しているが、「明暗」ではそれがなく、
それぞれの人物が等価に描かれている。
別の言い方をすると、「真相は●●」という書き方をせず、
相手からの見方も、同じような距離感で書かれているのである。
・・・僕はそれを、「宙吊りの見方」と書いた。
客観的な見方からの「真相」「正解」というものがなく、
「中心のない構造」という印象を受けたのだ。
・・・こういう書き方をした小説は、これが初めてだったのではないか?
小林信彦氏は、この作品を、「『坊っちゃん』と並ぶ名作」と評した。


ところで。この話は、登場人物がやたら見栄を張りあって、話が長い!(笑)
その中でも、主人公が、かつて振られた女に対し、
「何故女はオレを捨てたのか?」ということに思いを巡らす話がいい。


主人公は、「自分は頭がイイ」と思うが故に欺瞞的。その妻も同様。
ところが、主人公を振った女は天然タイプだった。
・・・そんな女に対し、策を弄するも、手もなくやられてしまうのだ。
その、「策士策に溺れる」という感じが可笑しい。


あるとき、主人公は偶然を装って、女と同じ温泉に泊まり、彼女に会う。
が、女は天然タイプなので、さらりと彼の「待ち伏せ」を指摘する。
それを否定するも、天然な彼女の答えに、主人公は却って手を封じられていく。


そのうち、「何で『待ち伏せした』なんて思うのか?」と彼女に聞くと、
彼女はさらりと、
「ただ貴方はそういうことをなさる方なのよ。
(中略)でも私の見た貴方はそういう方なんだから仕方がないわ。」
と返す。
・・・そう言われて、「なるほど」と言ってしまう主人公。
これは、語るに落ちるというか、「待ち伏せ」を認めてしまったも同然だ。


実は、漱石の妻・鏡子夫人も天然タイプだった。
漱石もかなわなかったんじゃないか?
漱石に生前、「自分を追い詰めるためにいるんだろう?」等、
さんざんイヤなことを言われたのに、
「生まれ変わっても漱石の妻になりたい」と語ったという。
晩年、トンチンカンなことを言って子供たちに笑われても、
「お前たちはそう言ってからかうけど、お父様は優しく教えて下さったよ。」
と言っていた。


(つづく)